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舞姫-08 [シトワイヤン-24]

舞姫と呼ばれることに抵抗感がなくなったのが何時頃なのかは自覚していないが、姫と呼ばれても、自分を変える事はしないでおこうと心に決めたのは覚えている、人から不思議な子と言われていたものの、自分的には普通の小学生だったと思う。
それが、姫と呼ばれることが定着した頃からか、本人は無自覚の無意識なのだが、優雅さが増したと言われる機会が増えた。
まあ、身近に、がさつな人がいる事も関係しているのだろうが。

私の舞は、人に安らぎを与えるという。
小学生の頃、その効果は歳を重ねると共に衰えるだろうという人が少なからずいたそうだが、その予言は外れたようで、姉は最近になって力が増して来てると言うが、実際、映像作品の売れ行きとして如実に現れている。
そのお蔭で、常に新作を求められているのは微妙な話。
作品の制作はスタジオの環境さえ整えてくれれば至って簡単なのだが。
鈴や鼓を持ち、舞う姿を撮影して貰うのが私の役割。
長めの休憩を入れても、半日で撮影終了、後は編集スタッフ任せとなる。
舞は冒頭部分と終了部分のみ定型だが後はすべて即興なので、同じ舞を舞う事は出来ない。
練習は一切しない、ぶっつけ本番、NGなしなのは撮影スタッフにその判断を下せる人がいないからだ。
こうして完成したDVDとかが、世界中で莫大な本数売れている訳で、こんな美味しい商売はないと思う。
ただ、舞をDVD一枚分収録をするとへとへとになる。
舞自体には、早い動きも激しい動きもないのだが…、いやゆっくりだから一切の誤魔化しが効かず、精神的な疲労に繋がっているのかも知れない。
神憑り的と言われ、何者かが乗り移った感覚なのか問われることも有るが、それはない。
表現者として、神から視聴している人へのメッセージを舞で表していると、本人は思っている。
兎に角、作品として残せるものを舞うと体重が減り、しばらく体が重いのが舞の回数を制限している理由で有り、身長が伸びない原因かも知れないと個人的に考えている。

元は神事に由来する舞だが、私にとってのイメージは漠然としていて特別な宗教的意味合いは考えていない。
だが、人の心に影響を与えているという事で、私と私の舞について研究を始めた人達の中には、宗教的なアプローチを試みている人もいる。
何故か信仰の対象とも言える状況になってしまってから、私自身も宗教について考えているが、キリスト教徒で有るところのキャッシーは大いに考えたという。
彼女にとっての信仰は自発的な信仰心によって始まった訳では無く、家庭の環境に由来する。
信仰に厚い人達はそういうものだろう。
キャッシーにとって幼い頃から何の疑いもなかった信仰心が、私の舞を目にして変わったという。
そんなキャッシーも含め、私の周りの人達と宗教について語り合うことが有るのだが、様々な形で信仰されている宗教とはとても不思議な存在だと改めて思う。
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